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本三戸八幡宮、南部安信の墓

青森県三戸郡南部町小向八幡にある本三戸八幡宮と南部安信の墓

40.408583, 141.269811に入口。
石碑と鳥居からの先が判りにくい。鳥居を進んだ先に西へ向けて延びる道を進む。
すぐ隣に畑へ延びる道もあるので注意。

建久二年、南部光行が甲斐から八幡を遷座。
この時、甲斐から供奉した佐々木治郎左衛門が別当になったという。
江戸時代には社領二十二石三斗二升一合、
八月十六日に大祭があり、藩より重臣が代参し、南部氏との関わりは強かった。

神社横の道を進むと南部安信の墓まで行く事ができる。
かつてはこの麓あたりにも南部氏の墓所があったが、水害で失われてしまった。
唯一高台に設けられた安信の墓のみ残る事になった。

麓の二の鳥居。

本三戸八幡社殿。

南部安信の墓入口標柱。
社殿のある高台から下奥へ進む道を通った場所にある。

南部安信の墓
青森県重宝。となりに説明看板と標柱も建っている。
南部氏二十三代。南部政康の子。
石川高信は弟。
津軽での三代主水挙兵の平定や、領内防備を固めたという。
没年は諸説。狩猟中に落馬で死んだとも。
現地看板は大永五年四月五日。

墓石は宝篋印塔。
暗くて銘は見えなかったが、
看板曰く、笠部に悦山・怡公
基礎に「廿三代太守右馬允安信公」。
戒名は金剛院殿悦山怡公大居士。

蛎崎八幡宮と道施庵

青森県むつ市川内町蛎崎にある蛎崎八幡宮と道施庵

蛎崎地区、蛎崎城よりも少し東方面にある。
道を挟んで北に八幡、南に道施庵。

蛎崎八幡宮は南部師行の家臣武田信義が蛎崎へ入ったのち、
鎮守として祀ったのが起源。
享徳二年、五代・蛎崎信純の時、足利義政より従五位下蔵人となり、国行の太刀を拝領した。
これを蛎崎八幡へ奉納したという。
康正三年、蛎崎信純が乱を起こし鎮圧のちは、根城南部領となる。

社殿

姫小杉の事
看板曰く、かつて杉の木があり、蛎崎城主息女の松子姫の墓だったそうだが、
明治三十五年に伐採された。のち祟りがおきたという。
昭和十年、松前靖広が来訪して切株跡に杉をうえたという。

鳥居左に説明看板があるが、具体的場所はわからず。

道施庵は蛎崎氏の菩提寺。
寛文年間、本覚寺末。
幕末明治期には布施智静がおり、此処で子弟教育、
明治八年には小学校開設に尽力、明治十年死去という。

黒石神社(津軽信英墓)

青森県黒石市市ノ町にある黒石神社

黒石藩初代・津軽信英の墓であり、信英を祀る神社。
信英は弘前藩二代・津軽信牧の子。
明暦二年に分知され黒石津軽氏の初代となる。

信英は寛文二年に死去。黒石陣屋の隅に廟が設けられた。
翌寛文三年、跡を継いだ津軽信敏が墓石を建立。これは「津軽信敏建立の石碑」という名前で市指定文化財指定。廟内にあるので拝めはしない。
なお、信敏が信英の事績を記した「藩祖信英公頌徳碑」も建立し廟内にあるという。

明治に入ると神社化した様で、明治十二年に郷社として社殿が建立。
十五年には県社になったという。

また、この神社には文化財が多数ある
県重宝として、津軽承叙奉納の太刀。
市指定文化財として、信英書状、御神刀(鎌倉時代の作という)、釣灯籠、石灯籠、前述の信敏建立の碑二基、神門がある。

神門
黒石陣屋の唯一の現存門。
明治十二年に現地へ移築。

社殿

明治天皇の碑
明治十四年に黒石神社に御座所を設けて各所天覧したという。
のち石碑が建立された。風化の為平成十一年に再建。

東照宮
元は弘前城内に津軽信牧が創建したもの。
平成二十五年、満天姫を相殿として黒石神社内に遷座。
満天姫は徳川家康養女の為。

八坂神社(滝宮)

香川県小豆郡土庄町滝宮にある八坂神社

34.506600, 134.198206にある。

素戔嗚が淡路から出雲へ向かう途中、小豆島へ立ち寄った。
渦江から上陸後、皇踏山へ登ったという。
この時、神座を設けて旅の安泰と民の安泰を祈願した。
滞在中は農耕や牧畜を教えていたという。
のち、素戔嗚を祀った社が山上に置かれていた。

文武天皇代、ここ滝宮へ牧地が置かれ、官牛が放牧されていた。
桓武天皇代延暦三年、官牛が別地へ移されたため、社を此処へ遷座したという。

天文八年、戦火で焼失。
慶長九年、社殿を再建。棟札は文化財指定という。
大正十一年、金毘羅丸模型が奉納され、のち町指定民俗文化財。当時の船の姿を残す。

宮牛放牧之跡碑
字は海部俊樹。

鐘楼
文久三年に再建されたもの。
現在牛像が鎮座しており、鐘は滝宮堂に移されたという。

途中の門
絵図によると舞臺

社殿

田村神社、一宮寺

香川県高松市一宮町にある田村神社と一宮寺

一宮と遍路寺、特別名のある寺社が一か所に集まっている。
また、この辺りには神社の大宮司居館である一宮城もあった。

田村神社は讃岐国一宮。
祭神は以下をまとめて田村大神としている。
・倭迹迹日百襲姫(孝霊天皇娘、武埴安彦の謀叛を察知)
・五十狭芹彦(吉備津彦)
・猿田彦
・天隠山
・天村雲(天隠山の子)

和銅二年の創建という。
嘉祥二年、従五位下等、
延喜式では明神大社。
弘安年間の時点では正一位の額がある。
讃岐へ細川が根付くと、細川頼之や細川勝元によって寄進があった。
また、田村大宮司は軍役も担い、天正十年に香西氏に属して長宗我部氏とも戦ったという。

一宮寺

神毫山大宝院。
真言宗御室派
本尊は聖観世音菩薩。
四国遍路八十三番札所。

大宝年間に義淵僧正の創建。当初は法相宗。
大同年間に弘法大師によって整備、真言宗になる。
天正年間に他所と同様兵火で焼けたそうだが再興された。

寺の由緒を詳しく調べてなかったが、場所的に田村神社の別当?

田村神社参道
摂社や鳥居が多くある。

倭迹迹日百襲姫と吉備津彦
倭迹迹日百襲姫は吉備津彦の姉らしい。

さぬき獅子
讃岐では室町初期から獅子舞が行われていたという。

宇都伎社

龍神
宇都伎社前に小判を持つ龍神がいる。

素婆倶羅社

田村神社本殿

一宮寺仁王門

一宮寺本堂

薬師如来
看板によると縁起があり、
近所に住む老婆が居り、「寺に地獄の釜の煮える音が聞こえる祠があって、悪人が頭を入れると抜けなくなる」という噂を聞いた。
老婆は是を信じずに入れてみたところ、本当に地獄の音が聞こえ、扉がしまり頭が抜けなくなった。
よって老婆は悔い改めて許しを請うと頭が外れた。老婆は以降心を入れ替えすごしたという。

大師堂

境内の古い石塔
一宮御廟と称し
孝霊天皇・百襲姫・五十狭芹の供養塔とも。

楠尾神社

香川県高松市国分寺町新居にある楠尾神社

八幡系の神社で、参道の鳥居には楠尾八幡宮、八幡宮の石額鳥居がある。
祭神は八幡と玉依姫。

由緒は現地石碑に詳しい。
忌部氏の祖となった手置帆負が小祠を祀ったという。
次子の手置日下大人道長を置いて楠尾宮と称した。
周辺には楠木が繁り朝廷への献木になった。

仁徳天皇代に霊異、欽明天皇代に光物が楠木へ止り三日光ったため、
社殿を建築し八幡が合祀された。

仁和二年、社殿再建。国司時代の菅原道真が境内に池の房庵を建てた。
保安年間、藤原家成が一女を仕えさせたという。

天正十年、長宗我部氏の兵火で焼失。
天正十三年以降、尾藤知宣の頃に、社領を没収されたという。
天正十五年以降、生駒氏が讃岐へ入り、生駒一正の代に家老安芸肥後に命じて社殿建立。
天和元年、洪水の為倒壊。再建された。

八幡額の鳥居。

社殿
山の上にある。

讃岐総社

香川県坂出市林田町にある総社神社

讃岐国の総社。伊弉諾・伊弉冉を祀る。
総社は国司の神社巡礼を簡便化する為、一か所にまとめて勧請したもの。
石碑曰く、ここの神社は天平九年の創建。

嘉慶二年、大火で社殿を焼失。
明徳元年、細川頼之が社殿を再建。御神体は梛の木の茂みから発見され本宮に納められた。
天文二十年に社殿再建、
天正年間に兵火で焼失。
慶長二年に再建、
元禄十五年再建、
明治三十五年、改築。
昭和五十九年、社殿改修。

なお、北側が公園になっており、車の場合はここから参拝できる。

梛の木
社殿焼失の際、御神体が此処へ遷座したという。

厳島神社 
境内社
安永七年創建。

中野天満神社

香川県高松市番町にある中野天満神社

戦国時代には雑賀城があり香西氏の家臣雑賀氏が城主という。
神社が高台になっているが、平地で一から作られている感じがあるので旧状判らず。
遺構も無さそうだ。

中野天満神社は名前の通り菅原道真を祀った神社。
かつては中ノ村にあって中ノ村天神と称したそうだが、慶長六年に遷座。
松平頼重時代に崇敬あり、田寄進や寺域拡張があったという。

昭和二十年、空襲で失われた。
昭和四十四年に再建された。

後藤芝山神社
境内社。
後藤芝山は高松藩校購道館の総裁。

金刀比羅宮

香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮

車の場合は麓にコインパーキングが多数あり、
または琴平駅が近いため歩いて行ける。
社域は広く山上まで続いているが、観光地化されているため、登りやすい階段がついている。
ただし、参道で人に慣れきったイノシシを見かけたので注意。

祭神は大物主。および相殿に崇徳天皇。
この場所はかつて大物主が行宮を置いた場所。のち祀られ琴平神社と称した。
保元の乱後、讃岐に流された崇徳上皇が此処を崇敬。死後に合祀した。
長期間別当による経営が行われてきたが、明治元年の神仏分離令の際に再び神社として独立し、金刀比羅宮と改めた。

琴陵宥常像
金刀比羅宮宮司。
明治元年、金毘羅大権現を金刀比羅宮と改めた。

鐘楼
隅櫓の様な鐘楼

旭社
別当時代の天保の頃のものという。

長い石段を上がると本宮など。

三穂津姫社
本宮から高い回廊を経た南側
三穂津姫は高皇産霊の娘で大物主の后。
社殿は明治九年という。

モルツマーメイド号

本宮
明治十一年再建という。ここの右手より奥社へ登れる。

イノシシ
落ち葉で埋もれた地面がもこもこしていた為、眺めていたところ急に現れた。
驚いて逃げたが、他の通行人にもまったく動じて居らず人慣れしている様子。

常盤神社
奥社へ向かう途中
武雷・誉田別を祀る。
両者武勇と勝利に関係している。戦勝祈願セットか。

白峰神社
奥社へ向かう途中。
崇徳天皇を祭り、相殿に待賢門院と大山積。
中門には源為義・為朝の上皇方だった二人の像があるという。
頓證寺勅額門にあったものという。

菅原神社
奥社へ向かう途中。

厳魂神社
金刀比羅宮の奥社
ここからの眺め良し。
祭神は巌魂彦。戦国時代の別当宥盛の事。

小烏神社

香川県丸亀市本島町泊にある小烏神社

本島の港から西に進んでいけば鳥居に到着できる。
目の前にはトイレも置かれているので休憩も出来る。

神社は大国主を祀るという。
日本尊武が瀬戸内海を通過し、霧で阻まれたところ、
烏が現れて島まで先導したといい、祠を建てて祀った事が始まりという。
境内には文化財が多くある。
制札場も文化財指定だがうっかり見落とした

鳥居
日本遺産構成文化財。
寛永四年、宮本半右衛門正信の奉納。
薩摩の石田大工加兵衛の作という。

千歳座
丸亀市指定文化財
文久二年に建てられた芝居小屋。
禁制を逃れるために神社の納屋という名目だったという。