カテゴリー: 墓・供養塔

和賀氏墓所

岩手県北上市二子町南田にある和賀氏墓所。

五輪壇と呼ばれている。
交差点39.321000, 141.127083の辺りに標柱があり、道を進んでいくと入口がある。
登っていくと石碑や五輪塔群がある。
平成十三年、和賀氏四百年祭にあわせて調査が行われ、和賀氏の墓所である事が確認されたと云う。
墓は二子城以降の墓所と云う。

また、墓域は二重の堀と土塁で囲まれており、ちょっとした単郭の城の様になっている。
墓所自体も簡易な要塞としたものか。

交差点の目印標柱。

進んだ先の入口。

登った先の二重の堀。

墓所
古い五輪塔が一か所に集められている。
新しく設置された五輪塔も中央に設定されているほか、小さな和賀氏墓所の石碑もある。

龍岩寺、相馬大作の墓

岩手県二戸市福岡横丁にある龍岩寺

曹洞宗
駐車場は広いが周囲の道は狭いため注意。
門前には相馬大作の旗、墓前にも看板が建っている。

元は九戸政実の乱の戦没者供養の草庵だったという。
万治元年、盛岡報恩寺仏山祖心和尚によって岩龍寺が建立された。
相馬大作も読み書きを学んだという。
天保六年、洪水によって寺が失われ現地へ移転した。
なお、現地は南部信直の葬礼場だったという。

門の天井に龍

本堂

南部信直御葬礼場の碑。
南部利淳による書。
境内西側にあり囲まれている。両サイドには相馬大作と関係者の墓がある。

相馬大作の墓
相馬大作は変名で下斗米秀之進と云う。
文政四年、相馬大作事件を起こす。南部氏と津軽氏との家格問題から、主君の為に津軽寧親の襲撃を計画。
しかし密告によって捕らえられてしまい、処刑された。のちこの話が評判となって現在に至るまで知られる。

右端には同志の関良助の墓もある

下斗米惣蔵・一條小太郎の墓
大作と関良助の向かい。

九戸政実の首塚

岩手県九戸郡九戸村小倉にある九戸政実の首塚

40.220417, 141.409806の道路沿いに入口。
隣に広いスペースもあるので車でも行ける。

政実は九戸信仲の子。
南部氏一族であり、南部信直とも争った。
天正十九年、九戸政実の乱で浅野長政に降伏した政実は、豊臣秀次の元へ連れていかれたのち処刑された。

家臣佐藤外記が乞食の体で首を持ち去り、此処へ埋葬した。

墓は木柵で囲まれており、手前に若干の石段

墓碑は宝篋印塔。
背面には卒塔婆も建っている。

原敬の墓

岩手県盛岡市大慈寺町にある原敬の墓

大慈寺境内の目立つ場所にある。
現地には説明看板も建っている。
敬の墓に並んで、妻淺の墓も並んでいる。

元は盛岡藩士。
明治期に外務省等を経て、大正七年に内閣総理大臣に就任した。
大正十年十一月四日、東京駅にて暗殺された。
のち遺書によって大慈寺に葬られた。
敬の跡は養子の貢が継いだ。貢の墓も同墓域にある。

原氏墓域

栗山大善の墓

岩手県盛岡市愛宕下にある栗山大善の墓

39.713111, 141.160278
盛岡グランドホテル北西。墓地へ向かう途中にある。

栗山大膳利章。
黒田考高の家臣で知られる栗山善助利安の子。
利安の跡を継ぎ、福岡藩主黒田忠之に仕えていた。

忠之は素行が悪く、大膳は是を諫めたが聞き入れられず。
よって大膳は幕府へ訴え出で、黒田騒動に発展。
福岡藩は改易は免れたが、大膳は盛岡藩へ預けられた。
大膳は文化面に長じており、盛岡藩南部氏は厚遇し文化を吸収していった。

慶安五年没。
西木紹山居士。

栗山大吉の墓
大膳の子という。雖失

金森頼錦の墓

岩手県盛岡市北山にある金森頼錦の墓

39.717472, 141.147833にある。
団地の一画が整備され、説明看板と墓碑が建っている。
墓の場所は高台になっており、町を見下ろせる。

郡上藩金森氏二代。
金森氏は飛騨高山に居たが、頼旹の代に上山、次いで郡上藩へ転封になる。
頼錦は頼旹の孫であり、父の可寛は家督前に死去した為、頼錦が継いだ。

頼錦の代に起きた宝暦一揆によって、宝暦八年に改易、盛岡藩へ預けられた。
盛岡藩は頼錦に屋敷を与えて厚遇し、宝暦十三年没。
ここの墓碑はこの時建立された。
のち金森氏が旗本として再興した際に、寛政元年遺骨は江戸へ移った。

曹雲院殿性海善理大居士
宝暦十三円六月六日。
墓碑は故郷、郡上八幡を向いている。

入口の看板。

是信房の墓

岩手県紫波郡紫波町にある是信房の墓

39.514509, 141.193185に入口。
紫波町指定史跡。
北の道路付近にも看板と標柱がある。進んでいくと石柵に囲まれた墓石がある。

是信房は元を吉田大納言信明とか、頼政の子孫の源宗房と云う。
鎌倉初期に親鸞の高弟二十四名の一人になり、東北で布教を行った。

文永三年または正嘉二年没という。

北信愛の墓

岩手県花巻市愛宕町にある北信愛の墓

雄山寺の墓地の一画に北信愛の目立つ墓域がある。
場所は境内左手へ進んだ所、看板にも地図がある。
大きな五輪塔と前に墓碑。

花巻と信愛の縁は、天正十九年に子の北秀愛が花巻城に入った。
慶長三年に秀愛が死去してまい、後任として信愛が花巻城へ入る。

慶長五年、和賀忠親が旧領回復の為に花巻城を攻撃。この時信愛は花巻城で防戦し守り抜いた。
慶長十八年没。

萬猷院殿節叟忠公大居士。
享保三年に子孫の北可継が石堂建立、宝暦十二年に北節継が寺領十五石寄進、文化九年に法名など、子孫によって供養が続けられている。

陽光山雄山寺
北信愛の太平記外古文書、羽織等遺品、具足があり、文化財指定されている。

宮沢賢治の墓

岩手県花巻市石神町にある宮沢賢治の墓

身照寺の墓地にある目立つ墓。
身照寺は日蓮宗、久遠寺の別院。
境内には看板も建っている。

左が宮沢賢治の墓。
近代の童話作家として著名。
真金院三不日賢居士。
昭和八年没。

右が宮沢氏代々の墓。
合葬墓で初代は宮沢喜助という。

ふくろう

高照神社、津軽信政の墓

青森県弘前市高岡にある高照神社。

弘前藩四代・津軽信政の廟所の神社。
信政は吉川神道を信奉し、死後は此処へ葬られる事を希望。
宝永七年、信政の死去により、跡を継いだ津軽信寿が此処へ葬った。
翌正徳元年には社殿、享保六年には門前の屋敷が整備。
七代・信寧、九代・寧親の代にも門などが整備された。

本殿等が平成十八年に重要文化財指定。
社殿右手から進むと津軽信政の墓所へ行ける。
ほか、馬場や弘前藩の資料館もある。

随神門
文化七年。

拝殿

手水舎
拝殿などと同時代という。

神楽殿
礎石が残る。
正徳四年時点で存在しており、大正七年頃まではあったという。

本殿

津軽信政の墓
弘前藩四代。津軽信義の子。
遺言で此処へ葬られた。後代に廟所の門などが整備され、文化財指定された。
門が文化十二年との事。

馬場
文政十三年、津軽信順によって設置された。
残っている境内絵図にもある。