カテゴリー: 墓・供養塔

北畠守親の墓

青森県青森市浪岡大字北中野五倫にある北畠守親の墓

40.700509, 140.605417にある
周囲は広い畑地であるが、一応車道も通っている。
バッタがおびただしい数居る為、歩く際には注意。

北畠顕信の子。
北畠氏の分流で、川原御所になったという。
浪岡城近くの畑地に二か所ある北畠氏墓所の内、片方が守親の墓と云い、
墓石は五輪塔。

墓石

南部経直の墓

青森県三戸郡三戸町川守田横道にある南部経直の墓

三戸町指定史跡。
三戸の法泉寺の墓域にある。
墓石は小型で細長い宝篋印塔。説明看板がついているので目立つ。

南部経直は南部利直の長子。
通称を兵六郎。家直、経貞、経直と改名。
慶長三年に生まれ、慶長五年に福岡城主(九戸城)。
のち、系図で慶長十八年没、
しかし、位牌で元和元年正月十八一没という。
景山晴公大膳定門。

法泉寺の山門
三戸町指定文化財。
三戸城搦手門の移築現存門。南部重直の時に移築という。
また、かつて三戸城台所を庫裏として移築もしていたという。

本三戸八幡宮、南部安信の墓

青森県三戸郡南部町小向八幡にある本三戸八幡宮と南部安信の墓

40.408583, 141.269811に入口。
石碑と鳥居からの先が判りにくい。鳥居を進んだ先に西へ向けて延びる道を進む。
すぐ隣に畑へ延びる道もあるので注意。

建久二年、南部光行が甲斐から八幡を遷座。
この時、甲斐から供奉した佐々木治郎左衛門が別当になったという。
江戸時代には社領二十二石三斗二升一合、
八月十六日に大祭があり、藩より重臣が代参し、南部氏との関わりは強かった。

神社横の道を進むと南部安信の墓まで行く事ができる。
かつてはこの麓あたりにも南部氏の墓所があったが、水害で失われてしまった。
唯一高台に設けられた安信の墓のみ残る事になった。

麓の二の鳥居。

本三戸八幡社殿。

南部安信の墓入口標柱。
社殿のある高台から下奥へ進む道を通った場所にある。

南部安信の墓
青森県重宝。となりに説明看板と標柱も建っている。
南部氏二十三代。南部政康の子。
石川高信は弟。
津軽での三代主水挙兵の平定や、領内防備を固めたという。
没年は諸説。狩猟中に落馬で死んだとも。
現地看板は大永五年四月五日。

墓石は宝篋印塔。
暗くて銘は見えなかったが、
看板曰く、笠部に悦山・怡公
基礎に「廿三代太守右馬允安信公」。
戒名は金剛院殿悦山怡公大居士。

真田清鏡の墓

青森県三戸郡南部町小向村中にある真田清鏡の墓

40.410780, 141.266305の辺り。
聖寿寺館南虎口の辺りに若宮八幡宮があり、参道途中にある。
目印に標柱も建っている。

真田幸隆の子。
式部少輔。
修験者となったのち南部利直に属し、九戸政実の乱を戦ったという。
元和六年に南部利直に対面できず、怒って切腹した。
たまたま墓を見つけた為、この辺りの経緯は確認しそこねた。

入口あたり。

南部実光の墓、南部利康霊屋など

青森県三戸郡南部町小向正寿寺にある南部実光の墓など

三戸南部氏の菩提寺三光寺の西側、
聖寿寺館の北側辺りに 南部実光らの墓がある。
此処にあるのは南部実光・南部利康霊屋・八木橋藤十郎の墓。
利康霊屋は少し東にある聖寿寺館案内所が受付となっており拝観が可能。

なお、隣の三光寺には南部信直の墓と南部利直の霊屋があるそうだが、
寺域は立ち入り禁止との事、周辺案内看板からも切り抜かれているので注意。

南部実光の墓
南部氏二代。南部光行の次男。
南部氏が甲斐から陸奥へ移った時期は諸説あるものの、
実光が承久元年に陸奥糠部へ入ったという話もある。

実光は承久の乱で幕府軍に参加のほか、将軍上洛供奉等、御家人としても或る程度の地位を有していた。
建長六年没。
墓は塀で囲まれた墳墓。

南部利康霊屋
国指定重要文化財。
利康は南部利直の四男。
浅水城南直義の跡を継いでいたが、寛永八年に死去。十四歳。
父である利直は是を憐み霊屋を建立した。

霊屋は保存の為、建物の内部にある。
和・唐・天竺様式を組み込んだ建築で、壁画は狩野派。

八木橋藤十郎の墓
町指定文化財。
八木橋孫左衛門茂吉の子。諱は武茂。
南部利康が死去した翌月寛永八年十二月二十一日に巡視。
忠岳宗順禅定門。

墓石は二つあり、自然石が最初の墓石。
寛延四年に末弟の茂喬が新墓碑を建立した。
南部利直は殉死を賞し、遺族に対して加増した。

蛎崎城

青森県むつ市川内町蛎崎にある蛎崎城

道路沿い41.164696, 140.891587に入口。看板もある。
看板から北へ進んだ所に城があるが、工事・農業で往来があり、
車の場合はどこか別の場所へ置いてきた方が良い。

城跡は錦帯公園になっており、道を進んでいれば目印看板がある。
距離も思った程遠くはない。公園に上がると蛎崎信純の供養塔が建つ。
また城郭体系曰く、北へ向かう東西の辺りも城域という。


城主は蛎崎氏。
建武元年、南部師行の家臣・武田修理太夫信義が築城。
信晟、信吉、信道と続き、五代・蛎崎信純の代まで続いている。

康正三年、蛎崎信純は安東氏と結び、南部氏に対して乱を起こしたが、南部政経によって鎮圧された。
文安五年に田名部城主赤星修理・鶴ケ崎順法寺城主新田義純らが蛎崎沖で溺死、これが信純によるもので、南部氏が調査を始めていたとも。

この戦いで蛎崎城は落城。信純は蝦夷へ逃れていったという。
のち城は根城南部領になり、新田盛政が城へ入った。

入口の石碑と看板

途中、錦帯城公園の看板。

白いガードレールがある方を進む。

右手に倉庫がある箇所。
虎口の様になっているが、公園化の為かは知らず。

山上の公園部分
ここからの展望も良い。

蛎崎信純の供養塔
蛎崎城主五代。蔵人。
供養塔は昭和五十三年八月十五日、子孫によって建てられた様だ。
南無妙法蓮華経の文字も。

奥はまだ先に続いていそう。

黒石神社(津軽信英墓)

青森県黒石市市ノ町にある黒石神社

黒石藩初代・津軽信英の墓であり、信英を祀る神社。
信英は弘前藩二代・津軽信牧の子。
明暦二年に分知され黒石津軽氏の初代となる。

信英は寛文二年に死去。黒石陣屋の隅に廟が設けられた。
翌寛文三年、跡を継いだ津軽信敏が墓石を建立。これは「津軽信敏建立の石碑」という名前で市指定文化財指定。廟内にあるので拝めはしない。
なお、信敏が信英の事績を記した「藩祖信英公頌徳碑」も建立し廟内にあるという。

明治に入ると神社化した様で、明治十二年に郷社として社殿が建立。
十五年には県社になったという。

また、この神社には文化財が多数ある
県重宝として、津軽承叙奉納の太刀。
市指定文化財として、信英書状、御神刀(鎌倉時代の作という)、釣灯籠、石灯籠、前述の信敏建立の碑二基、神門がある。

神門
黒石陣屋の唯一の現存門。
明治十二年に現地へ移築。

社殿

明治天皇の碑
明治十四年に黒石神社に御座所を設けて各所天覧したという。
のち石碑が建立された。風化の為平成十一年に再建。

東照宮
元は弘前城内に津軽信牧が創建したもの。
平成二十五年、満天姫を相殿として黒石神社内に遷座。
満天姫は徳川家康養女の為。

黒石藩津軽氏墓所

青森県黒石市乙徳兵衛町にある黒石藩津軽氏墓所

旧保福寺の場所にある。
40.646882, 140.591810の辺り。墓地入って左方向。
車不可の様なので近くのコインパーキングより徒歩。
保福寺は黒石藩津軽氏の菩提寺で、現在は別地に移っているが墓地は残っている。

墓は正面に四基あり。
右二つは累代供養塔。

左二つ
・久鶴の墓(津軽親足の子)
奇峰院殿瓊容香林大童子
文化十三丙子年六月十二日

・津軽承保の子。
哲心院殿夢幻了覺大童子
嘉永三年庚戌年四月十四日

長勝寺、弘前藩津軽氏墓所

青森県弘前市西茂森にある長勝寺

太平山長勝寺。
曹洞宗。
大浦・津軽氏の菩提寺。

享録元年、大浦光信の菩提寺として創建された。
元は鰺ヶ沢町にあったそうだが、弘前築城時の慶長十五年に現地へ移転。
建物九棟が国指定重要文化財。
ほか、津軽氏の霊屋・墓所がある。

三門
国重文。楼門型。
寛永六年、津軽信牧により建立された。

嘉元鐘。
国重文。
嘉元四年銘。
看板曰く、寄進者に北条貞時、津軽曽我氏、安東氏など。

本堂
国重文
慶長十五年建立。

庫裏
文亀二年建立。
元は大浦城の台所という。

津軽家霊屋群
国重文。

環月臺
津軽為信正室の霊屋。
寛永十二年建立。

碧巌臺
二代藩主・津軽信牧霊屋
寛永八年建立

明鏡臺
津軽信牧正室霊屋
寛永十五年建立。

白雲臺
三代藩主・津軽信儀霊屋
明暦二年建立

凌雲臺
六代藩主・津軽信著霊屋
宝暦三年建立。

弘前藩津軽氏墓所
塀と門で囲まれた墓域に歴代の五輪塔群がある。
門前からのみ。

革秀寺、津軽為信霊屋

青森県弘前市藤代にある革秀寺

津軽山革秀寺。
曹洞宗。
市指定史跡。

慶長三年、津軽氏菩提寺長勝寺の格翁和尚の隠居所として創建。
元は藤崎町にあったそうだが現地へ移転。
慶長十二年、津軽為信が死去。のち跡を継いだ信牧により霊屋が建立された。

本堂
江戸初期の物という。

津軽為信霊屋
重要文化財指定。土塁で囲まれている。
門が二か所あり遠くから眺めるのみ。
さらに修繕中なのかシートに覆われていた。
看板曰く、二重繁棰入母屋造、妻入で前面に唐破風という。