カテゴリー: 墓・供養塔

黒石藩津軽氏墓所

青森県黒石市乙徳兵衛町にある黒石藩津軽氏墓所

旧保福寺の場所にある。
40.646882, 140.591810の辺り。墓地入って左方向。
車不可の様なので近くのコインパーキングより徒歩。
保福寺は黒石藩津軽氏の菩提寺で、現在は別地に移っているが墓地は残っている。

墓は正面に四基あり。
右二つは累代供養塔。

左二つ
・久鶴の墓(津軽親足の子)
奇峰院殿瓊容香林大童子
文化十三丙子年六月十二日

・津軽承保の子。
哲心院殿夢幻了覺大童子
嘉永三年庚戌年四月十四日

長勝寺、弘前藩津軽氏墓所

青森県弘前市西茂森にある長勝寺

太平山長勝寺。
曹洞宗。
大浦・津軽氏の菩提寺。

享録元年、大浦光信の菩提寺として創建された。
元は鰺ヶ沢町にあったそうだが、弘前築城時の慶長十五年に現地へ移転。
建物九棟が国指定重要文化財。
ほか、津軽氏の霊屋・墓所がある。

三門
国重文。楼門型。
寛永六年、津軽信牧により建立された。

嘉元鐘。
国重文。
嘉元四年銘。
看板曰く、寄進者に北条貞時、津軽曽我氏、安東氏など。

本堂
国重文
慶長十五年建立。

庫裏
文亀二年建立。
元は大浦城の台所という。

津軽家霊屋群
国重文。

環月臺
津軽為信正室の霊屋。
寛永十二年建立。

碧巌臺
二代藩主・津軽信牧霊屋
寛永八年建立

明鏡臺
津軽信牧正室霊屋
寛永十五年建立。

白雲臺
三代藩主・津軽信儀霊屋
明暦二年建立

凌雲臺
六代藩主・津軽信著霊屋
宝暦三年建立。

弘前藩津軽氏墓所
塀と門で囲まれた墓域に歴代の五輪塔群がある。
門前からのみ。

革秀寺、津軽為信霊屋

青森県弘前市藤代にある革秀寺

津軽山革秀寺。
曹洞宗。
市指定史跡。

慶長三年、津軽氏菩提寺長勝寺の格翁和尚の隠居所として創建。
元は藤崎町にあったそうだが現地へ移転。
慶長十二年、津軽為信が死去。のち跡を継いだ信牧により霊屋が建立された。

本堂
江戸初期の物という。

津軽為信霊屋
重要文化財指定。土塁で囲まれている。
門が二か所あり遠くから眺めるのみ。
さらに修繕中なのかシートに覆われていた。
看板曰く、二重繁棰入母屋造、妻入で前面に唐破風という。

沼田面松斎の墓

青森県弘前市新町にある沼田面松斎の墓

誓願寺の境内にある。説明看板・標柱あり。

沼田面松斎は上野沼田氏の出身。諱は祐光。
津軽為信の軍師。
看板曰く、足利義昭や細川幽斎に仕え、浪人後に永禄十一年に為信に仕えたという。
慶長八年、弘前築城地決めで現地を選定。
慶長十七年没。
清光院殿面松斎大居士。家臣乍ら大居士号。

墓碑は歴代墓の中央に面松斎の法名。

沼田面松斎像

誓願寺山門
沼田面松斎の墓のある寺の山門。
重要文化財指定。
江戸中期に京誓願寺山門を模して造られたという。

南宗寺、八戸藩南部氏墓所

青森県八戸市長者にある南宗寺

月溪山南宗寺。
八戸藩初代南部直房が父である利直の菩提寺として寛文六年に建立。
山号・寺号は利直の法名の南宗院殿月溪晴公大居士からとられている。
元は別の場所にあったそうだが、寛文十二年に現地へ移転した。

以降、八戸藩南部氏の菩提寺となり、墓所が県指定史跡になっている
墓所へは境内から左へ墓地に出で、まっすぐ進んでいくと入口がある。

山門
県重宝建築物。
元文四年の建立。棟札・年銘入りの礎石があるという。

八戸藩南部氏墓所入口。

途中にある冠木門付きの墓所。
看板曰く一族墓所との事、大居士銘の墓碑も五基ほどある。

八戸藩南部氏墓所。
入口手前に説明看板が建つ。

八戸藩初代・南部直房の墓
盛岡藩南部利直の子。
寛文四年に二万石分知で八戸藩立藩。
寛文八年戌申六月廿四日
清涼院殿前金吾次将天性白心大居士

八戸藩二代・南部直政の墓
南部直房の子。子がおらず宗家より養子をとった。
元禄十二巳卯年三月十六日
天祥院殿前遠州太守月澗宗直大居士

八戸藩三代・南部通信の墓
盛岡藩南部重信の子。直政の養子。
享保元年・・歳八月廿四日
三玄院殿前遠州太守法・・徹證大居士

八戸藩四代・南部広信の墓
南部通信の子。
寛保元年辛酉五月初二日
正見院殿前甲州太守覺霊宗知大居士

八戸藩五代・南部信興の墓
南部信広の子。
安永二年癸巳八月十三日
龍津院殿前左金吾□(表示不可)尉珠巖宗滉大居士

八戸藩六代・南部信依の墓
南部信興の子。
天明元辛丑?年?六月初七日
寶性院殿前甲州太守禪岩宗安大居士

八戸藩七代・南部信房の墓
南部信依の子。
天保六乙未歳五月十二日
仙溪院殿前勢州太守仁道宗壽大居士

八戸藩八代・南部信真の墓
南部信依の子。兄信房の養子。
弘化三丙牛歳十二月二十九日
淳徳院殿前左金吾□(表示不可)尉仁峰宗榮大居士

八戸藩九代・南部信順の墓
島津重豪の子。
大名として最後の代。
明治五壬申年二月二十日
従四位源朝臣南部信順之墓

調べそこなった墓碑
天保四癸巳歳十月十二日
簫?成院殿韶巖宗鐵大居士

調べそこなった墓碑
天保八丁酉年十二月十三日
□(梅?)林院殿壇巖宗海大居士

背後の笠付石柱。
藩主法名と寄進者の名前。
供養の為のもの。

瑞龍寺、七戸氏・七戸藩南部氏墓所

青森県上北郡七戸町後川原にある瑞龍寺。

祥雲山瑞龍寺。曹洞宗。
法光寺末。
永禄元年、七戸左掛村に創建。現地には寛永十年移転。
七戸城主・七戸直時は法号を瑞龍寺殿といい、中興開基。

此処には七戸氏・七戸藩南部氏の墓所があるが、場所は境内から離れている。
40.694172, 141.146952から道にそれて南西に進むと墓所がある。

山門
立花善一郎建立の二層楼門でかつては茅葺という。

七戸氏・七戸藩南部氏墓所
南部家御霊屋として史跡整備されている。
石冠木門と説明看板がある。

七戸直時の墓
隼人正。七戸直勝の子。再興七戸氏二代。
瑞龍寺殿証山自公大居士
寺殿号なのは中興開基のためという。
正保四年二月十六日没。

七戸秀信の墓
南部重信の子。
重信は盛岡藩宗家を継ぐ前は七戸直時の跡を継いで七戸城にあった。
秀信は重信が七戸時代の寛文三年八月五日に死去という。
瑞雲院殿俊山宗雄大居士。
墓碑は風化で判りにくくなっているが、説明看板で判る。

南部信民の墓
七戸藩三代。
文久二年に南部信誉の養子として跡を継いだ。
文久三年、城主格になったそうだが城が無いため盛岡に居た。
戊辰戦争での敗戦後、隠居を命ぜられ南部信方へ家督を譲った。
信方は七戸城へ入り、信民も次いで七戸へ移った。
明治三年三月へ江戸へ移ったそうで、それまでに藩校設立などに尽力。

明治三十三年三月十五日没。

南部瑳久子の墓
南部信民室。谷田部藩細川興建の娘。
明治三十八年六月十二日没。

大平正芳の墓

香川県観音寺市豊浜町和田浜にある大平正芳の墓

34.068598, 133.634989
豊浜墓地公園駐車場付近の高台にある。
公園入口の道路沿いにも墓の看板が出ており、
高台入り口にも目印看板が建つ。

大平正芳は六十八・六十九代・内閣総理大臣。
日中国交回復等に尽力。
興國院殿寛道浄基正芳大居士
昭和五十五年没。

周辺には記念館や銅像・誕生地碑等、正芳関係の史跡もある。

霊芝寺、高松藩松平氏墓所

香川県さぬき市末にある霊芝寺

日内山霊芝寺
高野山真言宗。
本尊は十一面観世音菩薩。
高松藩松平氏菩提寺。

弘仁年間、弘法大師の創建。
かつては東林山遍照院日内山大岡寺と称した。
寛文五年、山城西明寺の恵忍と、高松藩主松平頼重が再興。
延宝四年、松平頼常が東林山霊芝寺と改め、本堂建立。
享和二年、松平頼儀が本堂再建。
明治二年、日内山へ改称。
昭和十三年、本堂再建。

法然寺と共に高松藩主の菩提寺であり、
こちらには水戸藩からの養子として入った二代・頼常、九代・頼怒の墓がある。
墓所は法然寺と同じく門前までだが、境内地図看板や説明看板が豊富。

山門
看板曰く雨瀧城の裏門の移築という。

本堂

鐘楼
看板曰く、梵鐘は松平頼常・頼豊が京の田中伊賀掾・藤原為秀氏に鋳造させたという。

黒門
墓所へ境内から松平氏墓所方面へ向かうところにある。
小さいながらも綺麗な高麗門。

高松藩主松平氏墓所。
国指定史跡。
参道に長い石段があり、入口に石碑と看板が建っている。
内部は法然寺と同様判らない。
二代・頼常、九代・頼怒が葬られている。

松平頼常は水戸藩二代・徳川光圀の子。
光圀の兄・頼重が病弱だったため水戸藩を継げず光圀が代わりに継ぐ。
よって頼重と光圀は互いの子を養子に出し合い、血筋を嫡子系に戻した。
頼重の養子として跡を継いだ頼常は学問に秀でていたという。
宝永元年没。

松平頼怒は水戸藩七代・徳川治紀の子。
松平頼儀の養子として高松藩を継いだ。
久米通賢は頼怒の代に抜擢され塩田開発を行った。
天保十三年没。
なお、頼怒の跡は頼儀の子・頼胤が継いだことで血筋が戻る。

松平頼該の墓

香川県高松市西山崎町にある松平頼該の墓

本堯寺にある。
霊廟付で登録有形文化財指定。
門前までしか行けないが、内部は無縫塔らしい。

頼該は通称左近、金岳。
高松藩主松平頼儀の長男。
文武に長け、勤皇家だったという。
慶応四年の鳥羽伏見の後、高松藩は朝敵指定によって討伐されかけたが、
頼該は藩論を恭順でまとめさせ高松藩を戦火から救った。
その後、同年中に没。

寶珠山本堯寺
法華宗。
頼該が熱心な信者だったという。

一夜庵、山崎宗鑑・細川氏政の墓

香川県観音寺市八幡町にある一夜庵など

興昌寺の境内にある。
一夜庵は山崎宗鑑が享録元年に結んだ草庵。
観音寺市指定文化財。
山崎宗鑑は室町時代の俳諧師。元は志那範重と称し足利義尚に仕えたが、義尚の市により名を改めて、明応年間に京の山崎に移った。
のち、親交のある東福時の梅谷という僧が興昌寺へ移った為、宗鑑は此処に移り住んだ。
草庵の名は一夜以上の宿泊を禁止したためという。

山崎宗鑑の墓
一夜庵の建立者。
寛正六年生まれ。天文二十二年十月二日没。
一夜庵の隣にある。
五輪塔で風化が激しいが、「宗鑑法師之塔」の石標柱が建っている。

細川氏政の墓
九十九山城主。
火輪がいくつも重なった五輪塔。一夜庵の向かいにある。
天正六年頃、土佐方の攻撃を受けて自害した。

塩津直方と一族墓所
丸亀藩観音寺町奉行という。
直方を探しきれず断念。上の土塀に囲まれた箇所は違うようだ。