大安寺、水沢伊達氏墓所、高野長英の墓

岩手県奥州市水沢東町にある大安寺

太白山。
臨済宗妙心寺派。
留守氏(水沢伊達氏)の菩提寺。

慶長十二年、留守宗利が父政景の発願で一関機織山に創建されたという。
寛永年間に現地へ移転。
数度焼失したが再建され、万延元年に吉祥寺本堂が移築され、改築を経て現在に至るという。

本堂
も恩は三巴・竪三引両・桐

高野長英の墓
幕末期の蘭学・医学で著名な人物。
蛮社の獄で嘉永三年に没。
生まれ故郷は水沢という
長英の没後、交流のあった薬種問屋神崎屋片岡家が遺体を引き取り埋葬した。
のち生誕二百年時、ここへ分霊の墓が設けられた。

右は長英没後三十年・長英母没後十五年の墓碑。
左は高野長運建立の墓碑。

高野氏の墓
横の石碑曰く以下の通り
・初代・高野佐渡守勝氏
 上杉氏に属し、のち留守政景へ仕えた。
 寛永元年九月十七日没
・間に氏信・氏常・氏清・氏昌・氏伸の五代。
・七代・高野元瑞氏安
 文政二年正月十日
・八代・高野玄斎氏信
 文政十年七月廿八日
・九代・高野長英瑞皐
 嘉永三年十月三十日
・十代・高野東英氏俊
 天保十四年五月六日
・十一代・高野長閑氏忠
 明治廿七年八月廿四日
・十二代・高野長運
 昭和二十一年
・十三代・高野長経

水沢伊達氏墓所
境内の目立つところにある墓域、
訪れた当時個々を詳しく確認しそこねた。
仙台人名辞典で安心しきって、水沢関係の物を準備せず。

以下、わかる範囲のメモ用。

留守政景の墓
留守氏十八代、水沢伊達氏初代。
慶長十二歳丁未二月初三日
大安寺殿高嶽玄登大居士
享年五十九歳。

伊達宗衡の墓
水沢伊達氏十代。
浄源院殿故将監清山宗榮大居士

泰源院殿故将監嶽猷公大居士

寛良院殿故土州泰山宗運公大居士

・・・・嶽協公大居士
だぶん伊達宗景。

玉峰院殿屑巖宗潤大居士

霊源院殿猷巖宗俊大居士

蔭淳院殿槐安樹宗大居士

龍雲院殿興源宗隆大居士

留守邦寧の墓
水沢伊達氏十三代。
伊達姓から留守姓へ復帰。

清心尼の墓

岩手県遠野市松崎町光興寺にある清心尼の墓

場所は39.340194, 141.518444
道路沿いから墓や碑・看板も見えている。

根城南部氏二十一代当主。
珍しい女性当主。

元は先代南部直政の妻だったが、直政が早死にし跡継ぎもいなかった為当主になる。

清心尼は南部直栄を養子に迎えて家の存続を図るほか、
南部宗家から古巣の八戸から遠野への移封を命じられ、遠野統治の基盤を築いた。

存在がはっきりとした女性当主であって、
直虎が大河になったのだから、そのうち清心尼も大河ドラマ化されるだろうと思う。

新しい墓石。
正面に、
守貞清尼心公 正保元年六月四日卒壽五十有九

遠野阿曽沼氏墓所

岩手県遠野市松崎町光興寺にある遠野阿曽沼氏墓所

9.345083, 141.520361に入口。
車の場合すぐ南に太郎淵がありそこへ止めて歩いて行ける。

遠野阿曽沼氏は文治五年、阿曽沼広綱が奥州合戦の功で遠野十二郷を賜ったのが始まり。
当初は横田城を拠点とし、阿曽沼広郷の代の天正年間に鍋倉城へ移った。
小田原征伐に参陣しなかったが、南部氏に属する事で存続。
しかし、阿曽沼広長の代である慶長五年の関ケ原の際に、上杉景勝と対するため留守にしたところ、家臣の謀叛によって領地を奪われ、奪還にも失敗して没落してしまった。

並んでいる五輪塔は菩提寺の養安寺にあったものという。

墓所入口。
看板が目印。

太郎淵
遠野の河童伝説地の一つ。
太郎という河童が住み、集落の女に悪さをしていたという。女河童が住んでいたとも。

鍋倉城

岩手県遠野市遠野町にある鍋倉城

遠野の平野部で川が二股になったエリアの突き出た山上にあった山城。
現在は鍋倉公園になっており城域は歩きやすくなっている。

北麓に館を置き、神社を上がっていくと本丸、東に二の丸が延びている。
南側には二の丸があって、根城・遠野南部氏の墓所になっている。
また、最近になって国指定史跡に昇格したらしい。


遠野阿曽沼氏、次いで遠野南部氏の城。
築城は天正年間。阿曽沼広郷が横田城から本拠を移転させた。

阿曽沼氏は鎌倉時代から遠野を支配した家で、
文治五年の奥州合戦で遠野十二郷を得て横田城を築城して入ったのが始まり。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐へ参陣しなかったが、南部氏に属して生き残る。

しかし、慶長五年の関ケ原の時、
南部氏と共に上杉景勝への供えとして出陣した際、国元で鱒沢広勝・上野広吉・平清水平右衛門が謀叛。当主阿曽沼広長は遠野を奪回するべく伊達政宗の支援も得て戦う。三陸より進み鱒沢広勝を討ち取る等したが敗北。
これにより遠野阿曽沼氏は没落した。

この後遠野は鱒沢・上野・平清水らが安堵されたものの、鱒沢・平清水は切腹、上野は病死。結局遠野は完全に南部氏へ併合された。

寛永四年、南部利直によって、八戸に居た根城南部氏の南部直義を遠野へ移封。
このころの根城南部氏は女性当主の清心尼が居た事で有名。
元は南部直政へ嫁いできたが、直政が子無くして急死。よって自ら家督を継ぎ、破木井南部家から直義(直栄)を養子に迎えて根城南部氏を存続させた。
遠野移転の際にも家中を取りまとめ、遠野の統治も担った。

以降、根城南部氏は遠野南部氏となって明治まで続いている。

南部神社
根城・遠野南部氏の初代・実長から八代・政光を祀る。

登山口

澤里屋敷
重臣澤里氏の屋敷跡。
北側の曲輪の一つ。

工藤屋敷
澤里の南の曲輪。

大手口。
大手は本丸東側。
熊出没の看板があるので注意
なお、看板曰く阿曽沼時代は二層楼門で、
慶長七年に南部利直の命で四つ脚門になったという。

三の丸土塁。

三の丸
中館氏・福田氏の屋敷があったという。

三の丸の櫓風展望台

展望台からは遠野が一望できる

主郭東の虎口
玄関址

主郭
板塀で囲まれていた。
看板曰く、発掘によって石垣や建物の石列が発見されている

八幡址

主郭搦手門
主郭の西側へ抜ける門

主郭北側の付属曲輪
土塁も残っている。

主郭南虎口

主郭・二の丸間の堀切

二の丸
主郭の南側。
新田氏の屋敷があった。

根城・遠野南部氏墓所
二の丸奥に歴代の墓所が置かれている。
堀と石柵で区切られており、内部へ入る事は出来ない。

初代南部実長は南部光行の三男。
八戸根城を拠点として、有力分家の一つだった。
特に知られるのは南部師行で、北畠顕家に従って南北朝時代を戦っている。

清心尼・南部直義の頃に八戸から遠野に来てからは遠野南部氏として続き、
明治中期になって男爵になっている。

左手にある南部実長代々の墓
遠目に見える。根城時代当主

麓の町並み
遠野座や遠野物語館が古い区画を再現している。

麓部分を流れる川。
川が北から東へ流れており、堀の代わりになっていた。

信成堂

岩手県遠野市東舘町にある信成堂

現在家庭裁判所になっている場所。
鍋倉城北麓、遠野博物館前。
入口付近に石碑が建っている。

盛岡藩遠野領の郷校。
嘉永五年、田口圭一郎・工藤謹之祐・江田大之進が遠野南部済賢へ進言し、
嘉永六年、運営費五百石で創設された。
由来は「信以成之」。

訪れて始めて知った為、由緒は詳しく知らず。
石碑には江刺県庁舎ともある。
左手には武田忠一郎の顕彰碑も

石碑

対泉院

岩手県遠野市新町にある対泉院

貴福山。
曹洞宗、大慈寺末。
本尊は釈迦如来。

新田氏の菩提寺。

新田氏(にいだ)は根城南部氏の一族。
根城南部五代・南部政長の次男・政持を初代とした分流。
政持は新田城を与えられ新田氏を称した。
また、弟の信助は中館(八戸城)を与えられ中館氏の祖になった。

さらに根城南部二十一代・清尼心が養子にした南部直義は、元は新田氏の出身である。

寺は新田政持により甲斐に創建され、のち八戸へ移転した。
寛永四年、新田氏より養子に入った南部直義の代に、遠野移転に従い現地へ。
昭和期に火災で寺宝や文書は焼失してしまったという。

境内本堂

大仁王像
圧倒的存在感を放つ。
昭和五十五年の建立で、肩に慈母観音入りの厨子が乗る。

新田氏墓所
入口に看板も建っている。
遠野時代は遠野南部氏の家老を務めた。

福田氏墓所
おなじく家老の福田氏墓所もこの寺にある。

常福寺

岩手県遠野市新町にある常福寺

金円山。時宗。清浄光寺末。
本尊は阿弥陀如来。

根城・遠野南部氏の甲斐時代からの寺院という。
正平二十二年、根城南部氏七代の南部信光が甲斐に西沢山神郷寺を創建。
のち根城への本拠移転で八戸へ移った。
応永十八年、高波が引いた跡から浜に阿弥陀如来と鰐喰いの鉦を見つけ寺宝に。よって海浮山仏浜寺に改めた。

寛永四年、二十二代・南部直義の代の遠野移転にも従い、現地へ移転し現在の寺号になったという。

また、阿弥陀如来と愛宕延命地蔵像は市指定文化財という。

紋は九曜

愛宕延命地蔵尊
遠野市指定文化財。
境内にある、目立つ仏像。隣に説明看板が立つ。
享保二年、豪商両川覚兵衛が小友金山全盛期に愛宕神社へ奉納したという。
明治の神仏分離令によって常福寺へ預けられた。

本堂
正面の向唐破風のすぐ真横に入母屋破風の玄関が並ぶ。

瑞應院

岩手県遠野市大工町にある瑞應院

鳳徳山。
臨済宗妙心寺派。聖寿寺末。
本尊は釈迦如来。

境内が塀で囲まれていないので開放感のある場所にある。

承応二年の創建。
慶安二年に遠野南部直義(栄)の娘お万が死去。聖寿寺へ葬られていた。
しかし澤室和尚を招いて開山として、ここへ改葬した。

明暦四園に山門、宝暦九年に堂宇再興、安永七年拡張、など定期的に手が入って維持されている

本堂
遠野市指定文化財。
字安永七年、七世関堂和尚の代の拡張時のもの。
本堂欄間部分の龍と天女は創建のものという。

内部にはうぐいす張り、書院造りのおなりの間、隠れ廊下等があるとの事。
寺紋は九曜。

天女と龍は是のことだろうか

柳玄寺

岩手県遠野市新町にある柳玄寺

宝林山、曹洞宗。
本尊は釈迦如来。
山門にひたすら目をひかれる寺院。

元は大慈寺十世の観音存真が隠居の草庵として龍源庵を結んだのが始まり。
慶安四年、大慈寺十一世泰育和尚が南部直義より許しを得て、龍源庵遺跡に創建。

訪れた当時確認しそこねたが、
池端の石うすにまつわる、孫四郎の姿が彫刻された墓があるという。

孫四郎という者が物見山の沼の主から米を一粒入れると黄金になる石臼を貰う、
これで裕福になるも孫四郎の妻が一度に大量の米粒を入れた所、石臼が水たまりに落ちて失われたという。
のち水たまりは池になり、池の端と呼ばれたという。

山門の上の方々。

春の七草と三猿。
門側面に四か所この様な彫刻がある。

眠り猫

反対側。
上に犬?三匹。
下彫刻は舞を眺めている。

龍三匹。

奥にある本堂
手すりが新しく、現代でも維持されている。

萬福寺、久子翠峰の墓

岩手県遠野市大工町にある萬福寺

白泉山。
浄土真宗大谷派。東本願氏末。
本尊は阿弥陀如来。

由緒は現地看板より、
元亀二年、気仙郡上有住村の祐正坊が遠野青笹村へ移り、阿曽沼氏の後援で創建したという。
その後数度の移転があり現地へ。

久子翠峰の墓
遠野市指定記念物
小五郎永豊。号は翠峰のほか景叔・汪然・五葉山人などがあるとの事。
出身は江戸で、儒学等を修めていたが辞し、仙台他東北を歴訪、
文政年間に遠野へ訪れて塾を開き、遠野漢学中興の祖になったという。

弘化四年没。
墓碑は自然石、正面に「翠峰先生墓」