カテゴリー: 越智・河野一族関係

臼坂城

愛媛県今治市朝倉北にある臼坂城

朝倉村誌で存在に触れられている城跡。
矢矧神社背後の山と云い、神社左手から山上までの道がついている。
山頂部分はシダで埋もれているが若干削平された様な箇所もある。

城主は臼坂氏。
河野十八将の黒川美濃守通博の旗本の家で、
河野分限録にも白坂三郎兵衛尉の名前が見えている。
朝倉村誌曰く、白坂三郎兵衛知清という。

平時は笹ヶ峠に居館を設け、三好氏襲来に供えていたというが、
白坂城は天正十三年落城という。時期的に天正の陣の時か。
以降は、高市郷古谷に居住した。村誌曰く、臼坂姓の人が多く住むという。

少し南側の峰。
若干削平感はある。

山頂部分
ほぼシダ植物。

三島神社(久妙寺)

愛媛県西条市丹原町久妙寺にある三島神社

久妙寺地区にあるが、境内や神社前の道は広くない。
車での参拝は難しいので注意。
徒歩なら丹原総合公園から歩いて参拝できる。

神亀五年、大山積神社より勧請された神社で、河野氏の崇敬ありという。
即ち、神亀五年なので他所と同じく越智玉澄の創建なのだろう。

江戸時代には松山藩の祈願所になったという。

社殿

神社石碑
大正五年十月建立。
村社とある。

社殿右奥に稲荷。

正善寺

愛媛県西条市丹原町今井にある正善寺

生木山。高野山真言宗。
四国遍路番外札所。

少し南の福岡八幡麓、飛び地になっている生木地蔵が有名。

開基は弘法大師とも。元は別地にあったという。
天慶四年、河野好方が藤原純友の乱での戦勝祈願が叶った為、具足一領・羽鏑矢二筋・米十二石・栗八石を寄進。
万寿二年、河野氏の諸士頭久間弥太郎成俊が、地蔵前拝殿雨覆・灯籠十二張・戸張一張寄進

暦応三年、河野通堯(通直と改)が寺地を移転。
慶長十九年、焼失。
貞享二年に再興し、翌年に生木地蔵覆屋が建立という。

境内の堂

生木地蔵
別格霊場十一番。

霊木楠
樹齢千二百推定。
元は本堂と大師堂間にあって弘法大師が地蔵菩薩を掘った場所と云う。
生木山の山号は、生きた木の中で掘った為。
昭和二十九年の台風で倒壊。

雨乞石
南無阿弥陀仏の銘、元禄十年。

河野通信の墓

岩手県北上市稲瀬町水越にある河野通信の墓

ひじり塚として知られている。
39.245226, 141.139319に入口。
タイヤ跡もあり、一応車でも墓前まで進めるようだ。
墓は墳墓タイプのもので、周囲に堀が設けられ、墳墓は大きな木が生えている。
また、鎌倉当時孫にあたる一遍上人が墓参りした際の様子が一遍聖絵にも残っている。

通信は河野通清の子。
玉澄から数えた場合河野氏二十二代。
小千御子より数えた場合越智河野氏四十三代。

通清が奴可西寂により討たれたが、通信と出雲坊宗賢と共に仇を討ち、
源平合戦には水軍を率いて源氏方に付いて戦った。
しかし、承久の乱で宮方に付いた事で陸奥へ流罪になり、
現在の安楽寺にて貞応二年五月十九日六十八歳で死去。
東禅寺殿観光西念大居士。

河野氏は子の一人である通久が幕府方に付いた事で存続。
恩賞として阿波富田を得たが久米石井へ変えて貰い首の皮一枚繋いだ。

通信の墓はその後、
弘安三年に孫の一遍上人が弟子らと訪ねて供養。
その後所在不明になったが、
昭和三十九年にそれらしい墳墓が発見され、昭和四十年の調査で通信の墓と判明した。
なお、愛媛にも東禅寺に供養塔が新設されている。

ひじり塚の看板

タイヤ跡終点。

墳墓。
堀がはっきり残っている。

光林寺と寺林城、河野・稗貫墓所

岩手県花巻市石鳥谷町中寺林にある光林寺

時宗。
林長山光林寺。
河野氏と稗貫氏に大きく関わる場所。

創建は弘安三年。
開基は河野通重。
河野通信の長子である得能通俊の子。
また、開山は通重の子で河野通次。
稗貫郡と河野氏の縁は、承久の乱で敗れた河野通信が流されて来た事に始まる。
河野氏は幕府軍に属した河野通久が継承し首の皮一枚繋いだが、通信ら一族は帰郷叶わず此処へ根付いた。

弘化二年、河野通次は稗貫郡葛岡郷の地頭で、
大番役中に同じ河野氏出身で時宗開祖の一遍と会い帰依。
通次は順道と改め、一遍の弟子になった。

弘化三年、一遍が祖父の河野通信供養で、稗貫郡へ来訪。
河野通重・通次の寺林城へ入り、通重と妻も入信し、此処へ光林寺が建立された。

また、此処は寺林城であり、平野部の中央に位置している。
その為か以後兵火に巻き込まれて何度か焼失している。
応永九年、永正八年、天正十八年の九戸政実。
九戸の後は浅野長吉が目代として浅野六兵衛を置いたという。
寺の周囲には堀が残っており、山門入口辺りも虎口状になっている。

また、境内には寺林河野氏と、一族から養子に入った稗貫氏の墓もある。

入口の冠木門

虎口状のL字
冠木門の先、左右を土塁で固めてる。

慶長天皇腰掛石・手撫松
L字の途中にある。
天授年間、北畠顕能を頼って長慶天皇が訪れた際に立ち寄ったという。
この時、和歌を詠んだが九戸政実の乱の時に焼失した。

山門
石段手前に河野氏の紋である折敷に三文字も。

本堂

境内北側
城であった名残か堀と土塁が残っている。
要地にあるため防御機能は維持されたものか。

稗貫利行の墓
稗貫氏六代。
河野通次の子で稗貫氏へ養子に入った。
延光院殿稗貫長阿俊行居士
延慶二年九月十七日没。

岸田伯耆守忠氏の墓
筒井氏、のち豊臣氏に仕えた大名だったが、
関ケ原で西軍に属して改易。
南部利直預けになり此処へ葬られた。

五輪塔だが空風が大きく、各パーツが同サイズの芋虫状になっている。

寺林河野氏の墓所
町指定文化財。
綺麗な覆い屋が設けられている。
個々の内訳の石碑も追加で建立された。

河野通次の墓
河野通重の子。稗貫俊行の父。
光林寺開山。順道。
正応三年十二月九日没。

河野通重の墓
得能通俊の子。河野通信の孫。
得能通秀は兄弟という事になる。
大法院殿寺林珠阿彩円大居士
永仁三年八月二十一日没。

通重室の墓
弘安八年二十一日没。
五輪塔。形は岸田伯耆に似ている。

極楽寺・安楽寺

岩手県北上市稲瀬町内門岡にある極楽寺

この場所は国見山廃寺があって国指定史跡にもなっている。
国見山廃寺は平安前期に創建された山岳寺院。
平安中期ごろから堂塔が建立され栄えていった。奥州藤原期には失われたと云う。

極楽寺は坂上田村麻呂のによる創建と云い、
天安元年、極楽寺を定額寺に指定。
承久三年、河野通信が承久の乱で宮方に属し敗れたため、陸奥に流罪となり極楽寺に入った。

通信は上台坊に入り貞応二年に死去。
上台坊は安楽寺と改めて残っている。

国見山極楽寺
真言宗智山派。

極楽寺石塔婆
このうち八基が県指定文化財。
二基が延慶年号、五基が最教の建立。

国見山廃寺五重跡
珍しく高い場所にある。
現地には礎石が残っている。

上台山安楽寺
岩手県北上市稲瀬町上台。極楽寺より南にある。
元極楽寺上台坊。
真言宗智山派。
河野通信最後の地であり、暫く東に行くと墓がある。

英賀城

兵庫県姫路市飾磨区矢倉町にある英賀城

住宅街真ん中の公園・神社になっている。
車は不可の為、電車または駅のコインパーキングから徒歩。
大規模な平城で近代に入っても遺構が残っていたそうだが、昭和期の工事で大部分が消失した。
それでも英賀神社に土塁が残っているほか、英賀城跡公園や岡之口・野中口等に石碑がある。

永享年間、赤松祐尚がに築城したのが始まり。
祐尚没後、三木氏英賀城へ入り代々使用された。
三木氏は河野氏の出身。
河野通堯(通直)の五男通近が讃岐三木へ移り、のち播磨の恋之浜城へ移った。
のち近重・通重と続き、英賀城へ移ったのは三木通武の代という。
そのあとを通安・通規・通秀と続き、最も知られるのが次の三木通秋。
このころの英賀城は蓮如上人の高弟法専坊空善を迎えて英賀御坊も城内に設けられて栄えた。
天正五年より羽柴秀吉の播磨攻めが始まると三木通秋は敵対し、天正八年に英賀城は落城した。

三木氏は離散したが生き残っており、通秋は天正十年に許されて英賀へ復帰。
弟の通基・定通もそれぞれ生き延びている。
特に定通は窪山城(林田陣屋の場所)へ移り、建部長政が林田藩として入ると立ち退いたが大庄屋として続いている。

公園内部に櫓台っぽい箇所。
関係はあるかは判らず。

野中口之碑。
公園西側。

英賀城土塁。
神社背後。
上に石碑も建っている。

英賀神社
創建は古く、元慶五年には従五位下。
嘉吉三年には英賀天満神社と称し、
明治四年、八幡・春日合祀し英賀神社と改めた。

岡之口の碑
土塁東の十字路。

稲爪神社

兵庫県明石市大蔵本町にある稲爪神社

越智益躬所縁の神社。

34.646078, 135.004102にあって
南に入口がある。駐車場は無いと思い込み歩いてきたが、北側にある様だ。

越智益躬は伊予の越智河野氏の当主。推古天皇代の人。
小千御子から数えて十五代目。
越智百男の子。

推古天皇の代に、百済方面から鉄人と云う人物を大将とした軍が肥後へ上陸。
各所から討伐軍が向かったが鉄人軍は強く苦戦を強いられた。
この時、伊予から参戦していた越智益躬は一計を巡らし、
一端鉄人軍に降り、信用を得て都へ攻め登る案内役となる。
播磨まで鉄人軍を通し、完全に信用しきった頃合いを見て、蟹坂で鉄人を急襲。
益躬が鉄人を足裏目掛け射て、倒れたところを郎党が首をとった。
鉄人の軍は混乱して散り散りとなり、逃れたり討たれたりした。

益躬はこの時の勝利を神の恩とし、此処へ大山積を勧請した。

また、この神社に大蔵谷の牛乗という神事あり。
益躬が鉄人を討ち取った際、鉄人の乗っていた黒牛が元になっていると云う。

社殿
越智氏の紋多数あり。

附、
神社のさらに西へ進むと和坂という場所がある。
読みが「かにがさか」と云い、鉄人討伐の地はこの辺りか。

蟹塚
弘法大師の蟹退治伝説がある。
大道サクラ公園34.656828, 134.977479にある。

真光寺、一遍上人の墓

兵庫県神戸市兵庫区松原通にある西月山真光寺

時宗を開いた一遍上人の死去地。
元々ここには和田御崎志摩観音堂があり、
一遍が遊行中の正応二年に此処で死去し、のち寺院化したと云う。
昭和二十年、大戦期に神戸の空襲で焼失。のち復興された。
なお平清盛が厳島より勧請した弁財天があったそうだが空襲で焼失。

平清盛御膳水の井戸
清盛が弁財天勧請時に僧が茶をたてて献上。

一遍上人の墓
時宗開祖。
別府河野通広の子。祖父に河野通信。
時宗を開いた事もさること乍ら、
河野通清・通信の墓整備や、
弟子による一遍聖絵で当時の様子を絵で把握できる等、後世への恩恵が大きい。

墓である五輪塔は県指定文化財。
現墓所は元禄年間の整備という。

墓所扉には越智河野氏家紋

三木家住宅

兵庫県姫路市林田町中構にある三木家住宅

ここの三木氏は河野氏の出自を持つ、英賀城主三木氏。
初代・通近は河野通堯(のち通直)の五男という。讃岐三木郡を与えられたため、三木氏を称した。
のち、播磨え移り英賀城主となり赤松氏に仕えていた。
しかし天正八年の羽柴秀吉の播磨攻めによって敗れる。

城主三木通秋は他国へ逃れていたが、のち播磨に戻り、姫路三木屋の祖になった。
通秋の弟通基は六九谷三木氏祖。

通秋の弟の一人である三木通定は林田へ移り、
窪川城を居館として使用していた。
元和三年に建部政長が林田へ移封となると、窪川城が林田陣屋地になったため、館を麓へ移転。
以降は林田藩の大庄屋家として続いた。一度藩へ士籍へ入れる話も出たが固辞したと云う。
三代・定久代になって、寛永二十年現地へ移転。

主屋

蔵など

内部は資料館

庭園。